人として大切なこととは?

子、孫、そして次の世代に伝えておきたい忘れてはいけない記録

第11話 母

母は、絶対に人の悪口を言わない。


これは、私が思うに心にそうしようと決めてあえてそうしてる訳ではない。

うまくは言えないが、元から生まれ育った環境がそうさせたそういう性格なのだと思う。

心にそう思うことがないのだから、そういう言葉は出てこない。

ある時、会社で後輩に言われた事がある。


「先輩の好きなところは、絶対に人の悪口を言わないところですよ。そういった話題にのって来ないし。」

 

と言われた。

 

「え?そんなこと…ないよ。」

 

そうかな?

 

そんな事を言われて、すごく不思議な気持ちになった。ふとその時思いあたるふしがあった。


母のことである。


私自身はあえてそうしようと努めてた訳ではない。

知らず知らずに、母のそんな性格を受け継いでいたのかな?と感じた。


小さい頃から絶対に、母から手を上げられたり、怒鳴り散らされたりしたことは一度もない。


母は、京都に家を三軒持ち、生まれた頃からお手伝いさんがいるような裕福な家庭に育った。

父もお嬢様育ちだから困る。

とよく皮肉で言うことがあった。

父が何度も懐かしげに話してくれた、代々語り継がれるべき面白話がある。

父と結婚した当初、父のお給料を全部お嫁さんに渡していた。

毎日、ビールに豪勢なおかずが並ぶので、気を良くしていた。

どこから、そんな贅沢な晩酌が出来るお金が湯水のように出てくるのか不思議だった。

半月ほどしたら、渡したお給料をもらった分だけ全部使ってしまいなくなっていて、母に追加で生活費を下さいと言われたそうだ。

元々母は、お小遣い制でなく、両親から欲しいものがあれば、買ってもらっていたせいだった。

それからは、お給料のうち貯金額などを引いて月に使える最低限の分だけ、母に生活費を渡すことにしたそうだ。

父は、昔から毎日細かく家計簿ををつけていた。

親子でも1円でも貸し借りなし、きちんと借りたら返す、お金には特にシビアだった。

実際に何冊も家計簿の記録と日々の日記が実家に残っている。


母の父である、私のおじいちゃんは、商船会社に勤務していて船に乗っていたらしい。私の知っている子どもの頃から外国での話をよく聞いていた。母も小さい頃、マニラに何年か住んでいたらしい。社長を経て定年になってからも相談役で勤務していたくらいだから、かなり偉い人だったようだ。

小さい頃は、よくおばあちゃんちでお風呂に入れてもらった。

ひざをしっかり洗いなさい。など、色々と教えてもらった。

お風呂から上がると、おばあちゃんがふんどしをおじいちゃんにセットしていたのを思い出す。


母の母である私のおばあちゃんは、私の小さな頃は常に着物をきちんと着こなしてタクシーに乗って会いに来てくれた。

来る時はいつも、えんじ色のタクシーだった。

日本タクシーだと思う。

社宅では、私、弟の下に双子が生まれたので、頻繁に京都からおばあちゃんが来てくれるので、有名だったらしい。


とにかく優しいおばあちゃんだった。


長女の私をこの上なくとても可愛がってくれた。

おじいちゃん、おばあちゃんの思い出と言えば、たくさんたくさんあるが、ホントいい思い出しかない。


私に話しかけたりしてくれる優しい言動は常に心に余裕がある育て方の人だったのだと思う。


おばあちゃんと同じく、母は常に子どもたちに対し、前向きでそして、4人の子どもには、限りなく優しい愛情をそそいでくれていた。

いつも子どもたちの心配をして、いつも子ども優先で、分け隔てなく可愛がってくれていた。

育ててもらっていた頃は、贅沢にも全くその事に気がついていなくて、それが当たり前だとさえ思って育った。


ただ、今から思うとその愛情の配分が姉だけ多かったのかな?という気がする。


そのせいで、早奈が姉を鬱陶しく思い、妬み、恨むようなひねくれた性格になってしまったのかしら?とふと思う。


確かに母がよく、長女は得なのよ。私も長女だから最初に生まれた子ども。妹が出来るまで親は独り占めだからとても可愛がってもらったわ。

あなたも長女だから、弟が生まれるまでの3年間、それはそれはみんなに可愛がってもらったのよ。

と言っていた。


なるほどな。

今思えば、母の妹や親戚のおじちゃんおばちゃんにも色々なところに連れて行ってもらった思い出があり、とても可愛いがってもらった。

 

ただ、私が望んで長女として生まれてきた訳じゃないし、親に私だけ可愛がってと願ったりしてもいないが。

(だから、妹から妬まれる筋合いもないのじゃないかなぁ。)

 

↓ 私の生まれる前の左が母、右が祖母


↓実家で見つけたおじいちゃんの名刺

聞いてはいたが、偉い人だったのだ。

 

 

↓ おじいちゃんの会社は今もあるようだ。

商船三井と1967年に合併したのが、私が生まれて2年後である。

それから20年後、私が入社した会社がまさに大阪市西区にあった。

その会社が合併するまで、30年間大阪市西区に毎日通勤していた。

ホントに不思議な縁を感じるが、それに気がついたのは、まさに今。

ちなみに、父の会社(官公庁)も偶然にも西区に事務所があった。

 

 

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