いよいよ、コロナ主治医ドクターKから、母の退院の許可が降りる手前まできた。
4人いる兄弟が連携しお互いの許可と確認を取り合い協力し、少しずつでも前に進んでいく必要があった。
幸い、4人も兄弟がいれば何とかなる!
しかも各自の介護負担は軽減できるはずだ。
母の退院に関して、私の意見はリハビリ目的の転院でなく、在宅介護が希望だった。
ただ、私一人だけの意見でなく、兄弟の同意と協力が必須だった。
話し合いの場に必要な内容と考えをまとめて妹2人に渡した。
実際に母に関しても、そして父に関しても、妹たちはこの時前向きな意見だった。
「どうにかにして両親を家に帰してあげたい!」
と願い、それは私の考えと完全に一致していた。
私は、両親が一番居心地の良い場所が病院でなく家であることを確信していた。
病院や施設にいたなら、たまに時間が出来た時に会いに行くだけでいいのだから私達は楽だろう。
でも、確実に言えることは、病院に入ればたとえ、リハビリ目的であろうと、短期間であろうと、それを両親が理解出来るかもわからないし、永遠だと捉える可能性が高い。
生きる気力がなくなるに決まっていると思った。
ただ実際、介護に関しても、色々な決め事に関しても「弟」は、決断力が鈍く、常に腰が引けて逃げ腰だった。
弟は実家にすぐ来られる距離に住んでいたし、仕事も恐らく忙しい訳ではなかったはずだし、土日祝日は完全に休みだった。
だが、全く介護には参加していない。
自宅介護なんて簡単に考えて、
無理じゃないのか、
病院に入れた方がいいのじゃないか、
お姉ちゃんに任せるわ、
というスタンスだった。
今から思うと小さな頃からそうだった気がする。
何をやるにも、どっちつかずで決断力がない、何でも決めごとを先延ばしにする。
3歳年上の姉からの圧力と威圧的に話す双子に挟まれて育ってきたせいなのか。
TVで血のシーンを見るだけで、
「ひえぇぇ~見せんとって~!」
と恐がっていた可愛い弟だった。
いつも、ヒラヒラの薄ピンク色の大きなサテンっぽい布きれを「黄色いおねま」と言って、それを必ず持たないと寝られなかった。
求めた回答が2点3点と揺らいでいて、
1本筋が通った考えや芯がない、
常にぶれていた。
そして何に関しても人任せなところがあった。
右で強く言う人がいたらそちらに流れ、
左でまた強く言う人がいたらそちらに流れる
が如く、
優柔不断で、
恐がり、
そして何に対しても、
臆病だった。
しかも、とにかくお酒をよく飲む。
真剣な話をしようとしても、ふにゃふにゃの訳のわからないただの酔っ払いな事が多かった。
でも、その頃は、私と弟の関係は、恐らく兄弟の中で一番仲が良かったと思う。
その後どうなったのかは、別として。
弟の身の上のことについては、あえてここで詳しくは伏せておくが、単身赴任の期間が長すぎて息子2人と嫁とは、何十年も会っていない状態でもあった。
↓ 退院後の問題についてまとめた文書
↓ 弟はグループLINEには行っていないので、
メッセージの会話(青い背景:私、白背景:弟)
この会話からわかるが、早奈のことを
全く信用していない。
長男として姉の私にも色々と指示を出しているが、
実家から小一時間で来られる場所に住む弟からは、
「介護を自分も少しでも手伝おうか?」
という言葉は一切なかった。
ただ、
「介護はそんなに甘くない」
という言葉だけは、正解だと思う。