人として大切なこととは?

子、孫、そして次の世代に伝えておきたい忘れてはいけない記録

第35話 父の教え

昔、父はよく食卓を囲みながら、ビール片手に兄弟みんなに色々な話をしてくれた。

その中でも強く印象に残っている言葉が2つある。

 

恐らく父の熱弁にその都度頷き、

一番熱心に耳を傾け、

その言葉の意味を理解し、

内容を熟知していたのは私ではないかと思う。

その言葉は確かに強く心に響いていた。

 

なんとなく思うのだがこれは、

「鳥のヒナが殻から出てきた時に最初に目にしたものを親だと思う、きわめて短期間の、しかもやりなおしのきかない学習」=「刷り込み」に似ている。

刷り込み(インプリンティング

鳥に見られる刷り込みだが、人も小さな頃から何度も親に言われていると「洗脳」のように頭に刻まれるような気がする。

そのせいで、妹たちもよくこの言葉を使うのかしら?

と思う。

だた、とても良い言葉なので洗脳だとしても刷り込みだとしてもその教えに間違いはない。

いいのだろう。

 

「因果応報」

 

因果応報という言葉は本当によく父が言っていた。

「天井に向かってつばを吐いてごらん?必ずそれが自分に戻って来るから。」

「悪いことをしたり、企んだりすれば、回り回って結局は全部自分に戻って来るんだよ」

 

悪しき行いは自分にはね返ってくる。

父は悪い方の意味しか話していなかったので、「悪い方」しかないと思っていた。

 

しかし、あまりにも早奈が「因果応報」と何度も言うので、なんとなく調べてみた。

すると、早奈が私に言うように、

「人の悪意や悪行を指摘する際に使う言葉」

だけではなかった。

 

実は「人生を幸せに生きる秘訣」が教えられている言葉でもあった。

逆も真なり。

つまり、

「どのような行いも等しく自分に返ってくる」

という意味があるので、良い行いをすれば自分に返ってくるという意味もあるのだ。

 

悪い行いからは、悪い結果が起こる(悪因悪果)

良い行いからは、良い結果が起こる(善因善果)

自らの行いの結果は、自分に返ってくる(自因自果)

現在の行いが、自身のその後の運命を決めその結果は、

全て自分自身に返ってくる意味全部をひっくるめて、

 

「因果応報」と成る。

これには目から鱗だった。

恐らく、父も知らなかったかもしれない大発見だった。

いや、私が知らなかっただけなのか。

 

大好きな山Pこと、山下智久の「正直不動産」のドラマではないが、実際にこの父の教え全てが、私を形成していた。

絶対に人に対して、悪行、欺す、人を傷つける、嫌がらせをする、嘘をつく、ことはしないのでなく、

 

絶対に嘘のつけないバカ正直な不動産営業マン・永瀬 財地 (ながせ さいち)35歳。

 

の如く、

そんなことは決して出来ない正直人間として育った。

ま、その前フリとして“風”は吹きませんが。(笑)

 

 

ただ、この言葉の善悪をジャッジするのは人でないことは確かだ。

仏教から由来する、お釈迦様の言葉らしいが、それをジャッジするのは、恐らく天(神)だと察する。

なんだか言葉の意味をはき違えているように思えるのは、早奈がその善悪のジャッジを勝手に下している点にある。

「自分の頭の中で都合よく善悪のジャッジして相手を裁こうとしている」

なんともはやお粗末な「因果応報」ではないだろうか。

 

「悪徳なあんただけには言われたくないわ!」

(とは決して言っていない。心の中の声)

 

「瓜田不納履、李下不正冠


「瓜田に履(くつ)を納(い)れず。

 李下に冠を正さず」

 

この言葉もよく聞いたうちの1つだ。

父の生き方がこうだったのだと思う。

言葉の意味は、

「瓜の畑では靴を履き替えてはいけない、瓜を盗んでいると疑われるから。

李(すもも)の木の下では手を挙げて冠を直してはいけない、すももを盗んでいると疑われるから。」

他人に疑いをかけられるような事はしてはいけないということ。

元々は中国古典からきたもので、

「文選(もんぜん)」という中国南北朝時代(439~589年)の詩文集。

南朝梁(りょう)の昭明太子(しょうめいたいし)によって編纂された中にある一節。

その話を初めて聞いた時、まるで渇いた喉に飲んだ水が身体に染み渡るような感覚があった。

父が作った言葉ではないが、昔の人は上手いこと教訓を例えるなぁ。

と感心したのを覚えている。

 

父に教えてもらった数々の言葉は、他にも沢山ある。

特にこの言葉は娘、息子には何度も繰り返してこの話をしたので知っていると思う。

息子は、性格が起因するのか、育て方を間違えたか、もしくは育てていなかったせいなのか、いかんせん悪行が多い気がするが・・・。

 

今は、孫にも同じように繰り返しこの教訓を話している。