私は両親のお財布事情は本当に全く知らなかった。
貯金がいくらあり、財産がどれだけあり、年金がいくら入り、どの様にやりくりしているかなど、全く無関心だった。
両親に年金いくらもらっているかなんて聞いたこともなかったし、あわよくばそのお金を貰おうなんて思いもつかなかった。
自分は親から独立した存在だと認識していたから。
父は家計簿をつけ、お金の貸し借りには厳しかった。
例えばAmazonでポチッて買ってあげた父が欲しかったCD代金もきちんと払ってくれたし、逆に頼んで買ってもらった物の代金も1円単位まできちんと請求された。
ぶっちゃけ、官から、重工、重工工事と65才まで勤めた父は、退職してから年金をもらう時期をだいぶ遅らせた。
その事は父が言っていたので知っていた。
一生懸命に何歳からならいくらで、何年遅らせるといくらで、さらになんて話してくれていたがその頃は、年金に全く興味がなくいい加減に聞いていたので、詳細はわからないが。
そのせいで年金はかなりの金額をもらっていた。
介護する事になってから妹から聞いて初めて知った。
手取りで年間420万だった。
長生きしているので、正解だっただろう。
実は、結婚当初から父が母用に年金をかけていたらしく、父とは別に母も年金をもらっていた。
母がいつからもらい初めて、いくらもらっているのかは今も知らない。
早奈は、それこそ母の年金が入る通帳印鑑も、父の通帳印鑑もカードも全て取り上げてしまったので、金額を知っていると思うが。
よく、私は両親にこんな話しをした。
「お父さん、起きて半畳寝て一畳って言うことわざがあるやん。私は正直、何も要らん。ただ、お父さん、お母さんが元気で長生きしてくれたら嬉しい。」
カッコつけてる訳でも、綺麗ごとを言ってる訳でもなく本気で思っていた。
あわよくば、自分で稼いだ訳ではない両親のお金を貰おうなんて思わなかった。
昔は、大切にしまってあったサンリオグッズを机の中から、こっそり持って行った妹に怒るほど、物に執着があった。
でも、この年になってようやく人にとって一番大事な物が何なのか悟ったからだ。
大事なのは物でもお金でもないことを。
人から人へ命を継ぐ。
自分の分身、
そのまた分身が生まれ、
遺伝子が受け継がれる。
生命の命こそが、
一番愛おしく、
唯一かけがえのないもの
人にとって
一番大事なものだと思う。
素朴な事だが、
家族みんなが、
病気や災害や悲しみに
遭遇することなく、
健康で元気に楽しく
平穏に日々を
過ごせればそれでいい。
と思う。
そんな考えを持つ私が、父の年金を奪い、そのお金で毎日贅沢三昧し、しかも父の実家を売った3,000万円を全額騙し取り、兄弟に黙ってニンマリ笑っているだろうか。
しかも10年の間は、脳がしっかり機能していた父がそんな大金の貸し借りを黙っている訳がない。
ただ、今となっては私が無実だと証明するには非常に困難な事だった。
それこそ、早奈が実家に来るな!と発狂した
(この発狂という言葉は決して大袈裟ではない。凄い剣幕で大声で理不尽な言葉を並べ立てて怒鳴りちらしていたので、もしこの時の録音があれば、誰かに聞かせてあげたいくらいだ)
その時点、すなわち両親がコロナ入院する半年前なら確実に証明できた。
父に聞けば一言で解決しすむ事だっただろう。
しかも、父はとんでもないことを言っている早奈をたしなめてくれたはず。
実際に、早奈にお前が帰れ!と叱ってくれた。
ところが、コロナ退院した両親は明らかに、たった半年で認知機能がビックリするほど低下していた。
父の言葉は曖昧、直近の記憶もほとんど消えてしまっていた。
母はお金に関しては、ザルなので自分の年金はお小遣いとして使い果たして、さらに父からお小遣いをちょいちょい貰っていた。
お金の動きは父任せで全く知らない。
父の実家を売った時期は、祖母が亡くなったちょうど10年前。
3,000万で売れたことは、当時私も聞いていた。
ただ、それだけしか本当に知らない。
そのお金がどこの銀行に入り、どこで保管されどうやってなくなったのか、果たして本当になくなったのか。
それを調べる必要があるが、そのやり方すら私には、すぐには思いつかない。
それこそ今でも父に答えられる能力さえあれば一瞬でわかることなのに!と本当に悔しかった。
早奈が私のことをお金に汚い人間で父の財産狙っていると思っている。
そもそも早奈は、息を吐くように嘘をつく人格で、全く信用できない。
妄想をまるで本当の事の様に言う人間なのだから。
名奈、弟の協力があれば、父の通帳の明細を銀行から取り寄せ大きなお金の動きを把握し、家計簿や日記をたどることで、何かわかるだろうと思っていた。
私のケセラセラな性格が幸いして、特に気にする事もなく両親と散歩に行ったり、ランチに行ったり、プチ旅行にも行き始めた。
父の身体能力はかなり回復していた。
介助すれば杖をついて歩けるまで回復した。
私が担当の日は、家の中にこもらず、コロナを怖がらず、マスクをしっかりしてとにかく父を外に連れ出すこと。
たくさん話しかけて、話してもらうこと、
毎食、父が楽しみにしている手作りのご飯を作ること。
父の孫もひ孫も呼んで一緒に食卓を囲んで食べることに専念した。
Instagramより(朝食)
Instagramより(夕食)
それから更に、私は窮地に立たされることになる。
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